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<白滝姫と山田男>伝説考 修正削除 移動 記事をクリップする

(2009年5月22日の記事:再投稿)
 
関東の養蚕信仰の女神さまには、群馬県桐生市にある白滝神社に祀られている<白滝姫>と、
茨城県筑波市の蚕影神社の<金色姫>の2つの系統がありました。

八王子(とくに北西部)では<白滝姫>が信仰されていますが、八王子以外の多摩や神奈川方面では<金色姫>が信仰されているようです。<金色姫>の伝説はかなり古くから存在しており、そのバリエーションも少なくありません。養蚕との関わりもかなり深く、江戸時代には神仏習合の信仰として養蚕の盛んな地域に広がったようです。

一方、<白滝姫>に関する伝説も、日本の各地に散らばっていますが、ちょっと面白い話なので紹介しましょう。

まずは、桐生に伝わる伝説から。

  今から1200年前の桓武天皇の時代、
  上野国山田郡から一人の男が京都に宮仕えに出された。
  かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、
  天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、
  白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。
  桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々に伝えた。

この伝説のキーワードは、<白滝姫>と<和歌>、そして<山田>という地名です。

同じような伝説は富山県にもありました。

  越中国婦負郡山田村出身のある男が京の公家の家に仕えていた。
  その家には白滝姫という美しい娘がいた。
  男がある日、白滝姫のために風呂をわかしたが、熱くて入れない。
  男が桶で水を運んだところ、その水がこぼれて姫の袖を濡らした。
  そこで姫は次のような歌を詠んだ。

  ○雨さへも かかりかねたる 白滝に 心かけたる 山田男の子よ

けっこうタカビーな内容の歌です。
水をかけられたくらいで、<自分が好かれている>って、<どんだけ~>ですよね。
ところが、山田男も歌を返します。

  ○照り照りて 苗の下葉に かかるとき 山田に落ちよ 白滝の水

  姫は田舎者だと思っていた男が予想外の見事な歌を返したのに感心。
  この歌が縁で、男は身分を越えて姫との結婚を許されます。
  そして、故郷の山田村へ姫を連れ帰り、終生仲睦まじく暮らしましたとさ。

ちなみに、白滝姫が輿入れのとき京から持参した二枚の鏡のうちの一枚が山田村の鎌倉八幡宮に今もあるそうです。でも、この富山バージョンには、姫が機織りの技術を伝えたという言い伝えはありませんね。

さらに、兵庫県神戸市北区山田町にも同じような伝説がありました。こちらはより具体的です。

  奈良時代、淳仁天皇の御世、
  右大臣藤原豊成の娘に中将姫、白滝姫という美しい姉妹がいた。

<中将姫>は奈良当麻寺に伝わる曼荼羅を蓮華の糸で一晩で織り上げたというお姫様だそうです。この名前は、能や歌舞伎にもよく登場しますね。

  その妹の白滝姫も、姉に劣らぬ才色兼備で、多くの公達から求婚されていた。
  ところが、山田郡郡司の山田左衛門尉真勝は、身分の違いも顧ず、
  白滝姫に恋をし、文を送ったところ、白滝姫から次のような歌が返される。

  ○雲だにも 懸からぬ峰の 白滝を さのみな恋そ 山田男よ

富山バージョンとは若干語句が違いますが、云っている内容はほぼ同じですな。しかし、相当の美人だったんでしょうね、たいした自信です。山田真勝は次のような歌を返します。

  ○水無月の 稲葉の末の こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水

  この歌に関心した姫の父藤原豊成は、白滝姫を真勝の嫁にやることを決断。
  おまけに、帝もこの話に感動して、真勝に宝剣を与えて祝福する。
  真勝は白滝姫を山田庄へ連れて帰る。

ところが、兵庫バージョンはラストが違います。

  しかし、もともと気にそまない結婚生活を強いられた白滝姫は、
  子供を産んだ後、病気で死んでしまう。
  真勝は邸内に白滝姫を葬り、弁財天の祠と観音堂を建て姫を祀った。
  その弁才天祠の前に井戸を掘ると、毎年、栗の花が落ちる頃に清水が湧き出す。
  真勝は白滝姫をしのび、姓を「栗花落氏」と改める。
  そして、後世まで山田庄の豪族として栄えた。

富山バージョンのお姫様は、今で云うところの「ツンデレ」系の女の子でしょうか。男の才能に惚れて、富山行きを決心するところなどは、チャーミングなお姫様です。
一方、兵庫バージョンはちょっともの悲しい結末です。最後まで<オジョウサマ>気質が抜けず、鄙の生活に慣れなかったのでしょうね。

ただ、富山の話も、神戸の話も、いずれも<養蚕>とは関わりがありません。

どうしてこの物語が日本中の山田郡(村)に広がっているのでしょうか?
ちょっと不思議ですね。

おそらく、<高貴な姫と山田男>ストーリーが先に存在し、全国の山田という村が、<この話の舞台はうちの村だ!>とばかりにこぞって採用したのではないでしょうか。
でもって、群馬の山田郡桐生の場合は、そこに養蚕伝来のサブストーリーも追加したのでしょうね。

ちなみに、白滝姫伝説を基に作られた創作物語もありました。

『桐生織姫伝説 白滝姫物語』 (松崎寛)
http://www.kiea.jp/shirataki.pdf
# by terri-o | 2018-11-29 00:25

奥三河の花祭

先日、念願の「花祭」に行ってきました。
# by terri-o | 2018-11-28 02:08

古今・新古今から、玉葉集、風雅集など

竹西寛子さんのコラムを読んでいたら、「古今集」と「新古今集」との差を説明する次のような一節に出会いました。

 古今集における自己主張は、うららかと申しますか、のどかと申しますか、
 しかしそのことはそれなりに、この歌の集が万葉集と区別される特徴の1つでした。
 (中略) ところが、これが新古今集になりますと、原因はそれこそさまざまに
 あったと思われますが、果たして主張すべき己はあるのかという、存在としての
 自己への疑いが、無意識的にも意識的にもしみわたってきて、それが表現の
 世界をっずっと深めているように読まれます。


「新古今集」のキーワードに「幽玄」があります。「新古今集」を1つのまとまった作品として読んだ経験がないので、なんとも判断できないのですが、新古今集の歌からは、歌を詠む自己とその対象である自然・景色(最近のコトバを使うならばexperience)とを俯瞰する理性が感じられます。

 見わたせば山本かすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん(後鳥羽院)

 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王)


竹西さんは、玉葉集・風雅集については次のように書いています。

 古今集に較べればあれほど懐疑的で不安が濃く、表現に深化のみられた
 新古今集でさえ、玉葉、風雅二集の前にはいくばくかののどかさを言われても
 仕方がないということでした。


竹西さんはそうした感覚を「自己への没入と解体、そして蘇生」と呼んでいます。私にとって、新古今が幽玄ならば、玉葉・風雅のキーワードは「心象風景」かと思います。永福門院の歌を読むとき、近代性が感じられます。枕詞や縁語、雅語が使われていないので読みやすいというのもありますが、そう感じる最大の理由は、そこに「時間と光」が描写されているからではないかと思います。

19世紀の終わりにスティル写真が発明されて、私たちは静止する時間をはじめて意識することができました。20世紀になるとムービーが登場し、止まっていた時間は再び動き出しましたが、その時間は有限だったり、スケールがつけられていたりと、かつての河の流れのごとく行方しれない無限の営みではなくなりました。女院の作品は、現代のショートフィルム作品のように、自然の一部、時間の一部を切り取りつつ、その背後にある秩序を感じさせてくれます。

 木々の心花ちかからし昨日けふ世はうすぐもり春雨のふる(玉葉132)
 花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影きえにけり(風雅199)
 夕暮の庭すさまじき秋風に桐の葉おちて村雨ぞふる(玉葉725)


13世紀を生きた女性によって、こうした自然感や表現手法が生みだされていたとは、本当にビックリです。

※竹西寛子「永福門院の歌」
# by terri-o | 2013-09-30 23:49 | 雑文

為兼卿三十三首

和歌の流派である京極派については、以前の日記で少し書きました。

京極派の和歌の特徴は、雅語に固執せず、自分の心から湧き出る思いをそのまま言葉で表すことをよしとした点にあります。こうした作風は、当時の主流派である二条派からは「異体・異風・異端」と批判されました。

とはいっても、京極派の理論・実践両面の指導的位置にいた京極為兼にしても、ただ自由に歌を詠んでいただけではありません。さすがには御子左家の流れをくむ歌人だけあり、極めて技巧的な歌も作っています。

以下、『為兼卿三十三首』という作品を紹介しましょう。(※結句だけ離してありますが、その理由は後ほど)。

01 あらたまの春も立ちぬか逢坂の関さへかけて   霞む木の下
02 降る雪に昔の跡を尋ねてや若菜摘むらむ      高円の小野
03 この程は川音立ててうち解くる氷の後に       残る白波
04 時を得て開くる梅の花かづら心をかけて       見るや我妹子
05 折りてげに花をも見ずは鶯の鳴くよりほかに    声や聞かまし
06 待ち侘びて初音をぞ聞く時鳥忍ぶる程は      しばしばかりか
07 橘の香をなつかしみ夏衣袖ぞ涼しき          風の吹くにも
08 今ははや夕立しけりいかばかり露けかるらむ    森の下枝の 
09 津の国の芦間の蛍ほのぼのと明け行く夜半の   野にも燃ゆるか
10 川の瀬の清き汀にみそぎして後より秋の       風は吹くかは
11 遥かなる朝霧かけて橋立や与謝の吹井の      浜に寄る波
12 泊り舟苫引き掛けて夜もすがら待ち出づる月を   見て明かしつつ
13 夕暮れは野原をしなみなく鹿の哀れをそへて    露結ふ草
14 ふるさとの庭のあさひは吹風に虫の音そへて    寒き衣手
15 誰もはたをしむかひなき秋もはやとまらてゆくか   てまのをきにも
16 すきのやにふる音すなり神無月しくるゝこその    もろきこのはか
17 聞きしにもあらぬ嵐のさらゝゝと音さへ今は     かはりてそふく
18 かきくらしふるあわ雪のつもるまて楢山ふかく    雲かくれたゝ
19 けふまてはかりはのまゝはそよさへて霰のさむき  たまはこゝのへ
20 したへとも猶くれはてゝ鳥羽玉のひとよにふしを   へたてつる哉
21 ちきりしもいくはくにとてうき人を忘れんとすれは  なしとことのは
22 かくはかりあひもおもはぬ逢ことをたのむ心の    はてはつらきか
23 ■(ひ■)をなみ恨そまさるあさころもぬるゝ袂に  かゝるしらなみ
24 をのつからとにも恨めし人こゝろたかりしまゝの   身そと思ふを
25 数々に猶そ恋しき月日へて忘れんとのみ      おもひける哉
26 見しもうし聞きしも人の思ひより立や煙の      なひくゆふへを
27 西にかよふわかこゝろそとこくらくの道のしるへと  思ひしらすや
28 待ことのなほ年月の明けくれて穢れは老と     やかてならぬか
29 かけまくもかしこき加茂の葵草かけてそ頼む    神のみこまこ
30 せをはやみ流れてはやき水草のあとはかりみゆ  これをうたかた
31 手を折てかそへつゝみん萬代を神より外に      たれかしらなん

※23番目の歌の最初の漢字が判読できませんでした。「ひ」で始まる漢字です。

この序文は次のように書かれています。

「毘沙門堂大納言為兼卿さどのくににおいて読める歌この三十一首、二首は上下にあり。五七五七はなが歌、七字はもじぐさりなり」

まずここには31首しかありませんが、各歌の先頭の文字(冠字)をつなげると、次の歌になります。

 あふことを またいつかはと ゆうだすき かけしちかひを かみにまかせて

さらに、各歌の最後の文字(沓字)をつなげると、もう1つの歌になります。

 たのみこし かものかはみず さてもかく たえなばかみを なをやかこたむ

この歌にはさらにしかけがあり、第1句から第4句までは1つの長歌になっています。さらに、結句だけを見ていくと、「尻取り」(もじぐさり)になっていることに気づきます(かすむきのした→たかまどのをの→のこるしらなみ…)。

凄い超絶技巧ですよね。

もう1つ「木綿襷(ゆうだすき)」という技法もあります。以下は、『阿弥陀仏木綿襷』と呼ばれる12首です。

①あさがすみみどりにかすむ谷の戸はふる淡雪のつもらざりしを
②秋山の峯をば霧のたちこめてふもとの里に月ぞまたるる
③あひそめて見なれし後の玉章にふかき情はつくしつるかな
④あきはつる身を木枯しの手枕にふけゆく夜半は月もすさまじ
⑤あきらけき御代のはじめをたのむかな深き恵はつきじとぞ思う
⑥秋の夜のあはれは深きあかつきのかすも見えず有明の月
⑦みゆきする道ふみわけてみかり人みのしろ衣身になれにけり
⑧たよりなき旅のほかには立ちわかれ誰に都をたづねとはまし
⑨伏見山ふもとの里に冬枯れてふくや嵐のふる時雨かな
⑩月にだにつれなき人はつひにこそつらき心をつくしつるかな
⑪東路の道はものうき旅衣ふるさとしのぶ月や恋しき
⑫あすしらず身には命もたのまれず深きみのりのつとめのみして

この12首は次のように書き並べられています。


# by terri-o | 2013-02-22 13:53 | 雑文

京極派の和歌など

去年の秋ころから、「京極派」の歌人とその作品に嵌り、「玉葉集」「風雅集」をパラパラと眺めています。歌集ですから、歌が詠まれた文脈の解説は詞書くらいしかありませんが、けっこう楽しく読めました。

「京極派」の特徴を簡単に記すと:

・徹底した自然描写
・自分の心から湧き出る思いをそのまま言葉で表す

「百人一首」もロクに知らない素人の感想なので的外れかもしれませんが、解説書などからの意見をまとめておきます。

三代集以降、歌は伝統的で雅な言葉を使って詠むというルールが確立していったようです(古今伝授という言葉もありますね)。もちろん、遊びの要素は当然必要であり、ルールがなければ遊びは成立しないことも確かです。『野守鏡』(保守的な歌論書)によれば、「花に嵐をいたみ月に雲をいとふやうに、その物につけてよみならはせる事ども」を、「いつはり飾れる事」ながら「おもしろくやさししう」詠めということのようです。

ところが、京極派の歌人たちは、「自分自身の目に見、肌に感じ、心にひびいた現実の自然を - 動き、光り、循環する自然を、そのままの生きた姿でとらえた」(岩佐美代子)そうです。その結果、現代人の私たちにもわかりやすい作風ながら、「ただ自然を描写しているだけ」という批判を受けることにもなりました。

「こころの表現」という点では、京極為兼自身「万葉時代の人々は、感動の起こるままに自分の心を率直に詠み、後人の企ても及ばない名歌をなしたではないか」と述べ、「心のままに詞のにほひゆく和歌を良し」としたそうです。次の一首は、そうした為兼の心情が現れていると思います。

 思ひみる 心のままに 言の葉の ゆたかにかなふ 時ぞうれしき

ところが、こうした態度もまた当時の主流の考えからは外れており、「(為兼は)おのおのともかくも心にまかせて、思ひ思ひに詠むべき(と指導している)」(野守鏡)と批判されてしまいます。実際、人の心の中などわかるものではなく、あまり主観に走りすぎると、意味がわからなくなってしまいますね。次の一首は、為兼が「こころ」をどう捉えていたかを表しています。

 はかりなき 心といひて 我にあれど まだその故は 思ひえなくに

それでも「玉葉集」「風雅集」に採用された京極派の歌(あるいは京極派がよしとした古歌)を眺めていると、まるで自然の中を散歩しているような感覚にとらわれます。

これ以上はうまく説明できないので、とりあえずは永福門院の代表的な歌と、岩佐美代子氏の評を引用しておきましょう。

 入相の 声する山の かげくれて 花の木のまに 月いでにけり

 この「月いでにけり」という第五句、こんな言い方はざらにあると皆様お思いであろうが、
 実は二十一代集の歌の中で、「月が出る」光景を第五句で表現する時、
 「月いでにけり」 と言ったのは、この歌以外には伏見院の一首、

  軒ちかき 松原山の あき風に 夕暮きよく 月いでにけり

 があるだけである、では他の歌では何というかの? 「いづる月かな」八例、
 「いづる月かげ」実に四十六例、あとは「月はいでけり」「月ぞいでぬる」各二例、
 「月はいでける」「月はいでけれ」各一例。試みにこの二首の第五句をこれらの
 表現にいろいろ置き換えてためしてみていただきたい。

さらに、

 月のすがた なほ有明の 村雲に ひとそそきする 時雨をぞみる

 (前略)「村雲に…時雨をぞみる」とうい表現の中にはこれだけの観照の過程が
 含まれていたに違いない。これだけの視線の往復、時間の経過があってはじめて、
 「ひとそそきする時雨をぞみる」という、二十一代集中ただこの歌にしか用いられ
 ていない独特な表現が、少しのあぶなげもなくうたい据えられるのである。

最後に「玉葉集」「風雅集」からお気に入りの冬歌を数首…。

 風ののち 霰ひとしきり 降りすぎて また村雲に 月ぞもり来る

                    従三位為子

 さむき雨は 枯野の原に ふりしめて 山松風の おとだにもせず

                    永福門院

 夕暮の 雲とび乱れ あれて吹く 嵐のうちに 時雨をぞ聞く

                    院(伏見院)御製
# by terri-o | 2013-02-15 21:21 | 雑文