2010年 01月 23日
紀行文を読んでは、擬似旅行体験を楽しんでいます。
鎌倉時代、京都と関東の往来が盛んになり、多くの紀行が書かれています。
十六夜日記
東関紀行
海道記
などがありますが、関東の国々を旅した記録はあまり多くはないようです(まあ、私が知らないだけなのかもしれませんが)。
西行も関東を旅していますが、その足跡は不明な部分が多くてよくわかりませんでした。
(関東で詠んだ歌も5首しかないとか)。
南北朝から室町初期になると、さらにテキストが見つかりません。
『都のつと』は、1350~52年(観応)頃、九州を振り出しに諸国を放浪した宗久(生没年未詳)という坊さんの紀行文があるようですが、未だ読んでいません。
テキストがぐっと増えるのは室町後期から。
■『廻国雑記』
道興准后という、かなり偉い坊さんが書いた紀行文ですが、関東をくまなく廻り、その先々で歌を読んでいます。
ただ、日付がなく、地名だけが書かれたセクションも多くて、訪問先の順番を追っていくと、本当に時系列に並べられているのかどうか疑問に思えてきます。
・廻国雑記の旅のコースと期間
文明18年(1486)の6月から約10か月間
文明18年7月15日 越後国府着
↓
↓ 現国道252~木落 十日町市の北で信濃川
↓ 漆山~壺池~くつぬぎ~ふくろ(吹路)
↓ 吹路は新治村吹路
↓ ※新治村は群馬北部の村ですね。
文明18年9月14日 筑波山 参詣
10月朔日 下総
(その後、岩つきから武蔵国へ入り、浅草へ)
武蔵国では、私の家の近くにある<霞ノ関>を訪れています。
しかし、どうやら町田方面から来て、武蔵国へ行っています。
この辺りの記述がどうも腑に落ちません。
(霞ノ関、現在の多摩市にて)
名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、
吾妻路の霞の関に、としこえは我も都に立ちぞかへらむ
都にといそぐ我をばよもとめじ。霞の関も春を待つらむ
(この後、武蔵国へ入り、西武線沿線の恋ヶ窪に至る)
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや
その後は、堀兼の井、入間川を訪れ、現在の埼玉へ至ります。
この旅の間、道興准后は、大塚の十玉坊(じゅうぎょくぼう)に四回も滞在したようですが、十玉坊とはこのあたりの聖護院系統の修験の拠点でだそうです。
(この大塚の地については、川越の南大塚説、志木市幸町の大塚説がある)。
ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。其の夜のとまりにて、
山攣唆険海波瀾 到処多其行路難
踈屋終宵風雪底 凍鶏喚夢月西寒
ある時大石信濃守といへる武士の館に、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。
大石氏は、八王子の滝山城などを築いた豪族ですが、ここにある館は、現在の羽村辺りではないかと言われています。
その後の経路も不思議です。
(川越)
↓
(大井)
↓
(新座)
↓
(所沢)
↓
(山梨)
でもって、
3月2日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる
とあり、この後、道興准后は甲斐や奥羽地方をまわり、五月に京都に戻って二年間にわたる巡歴の旅を終えています。
■『北国紀行』
道興准后とほぼ同じ時期、尭恵という坊さんも関東を旅して、「北国紀行」という紀行を書いています。
こちらは、日付も正確で、行程が非常にわかりやすくなっています。
この紀行が、興味深かったのは、<草津>や<伊香保>など群馬の温泉に関する記述が含まれている点です。
また、尭恵が善光寺にお参りに行っている間、道興准后が越後を通り過ぎていて、ニアミスをしてたりもします。
・北国紀行の旅のコースと期間
文明17年(1485)秋 京都発
文明18年7月14・15日 善光寺詣で
文明18年8月末まで 越後逗留
文明18年9月9日 上州白井にうつりぬ(子持村)
↓ 草津、滞在27日
↓
↓ 忘るるよ思ひのこせと浅間山消えしけふりのおもかげに立つ
↓
文明18年10月17日 伊香保着、滞在17日
↓
↓ からころもかくるいかほの沼水にけいふは玉ぬくあやめをそひく
↓ (藤原定家の歌)
↓
↓ 種しあらはいかほの沼の杜若かけし衣のゆかりとおなれ
↓ 「下葉和歌集」
↓
文明18年11月20日 上野国国府
↓
↓ 跡もなくむかしをつなく舟橋はたゝことのはのさのの冬原
↓
文明18年12月半ば 武蔵国に入る
↓ 聴鼻(深谷駅東)
↓ ~蓑田(吹上と鴻巣の間)
↓ ~狭山~鳩ヶ井(鳩ヶ谷)
↓ 鳥越、金光寺
↓ (隅田川沿いに江戸方面(鎌倉街道下道か?)
文明19年2月20日 鎌倉着
↓ 5月末 六浦金沢称名寺
↓ 6月末 再び武蔵(中野)
↓ 堀兼の井を訪問
↓ 再び上野国国府
文明19年11月27日 国府発
11月28日 三国峠を越える
こうして約2年に及ぶ旅を終えて、尭恵も帰って行きました。
★
中世の関東への旅人にとって、信濃善光寺と武蔵浅草寺はMust-Visitなスポットだったようですね。
また、<佐野の船橋>や<堀兼の井>の歌枕としての知名度の高さは、今では想像もできません。
これほど多くの紀行文が書かれた背景には、応仁の乱で京都の戦火が続いたことや、<連歌>の全国的な流行がありました。
この頃には、西行・芭蕉と並ぶ三大旅歌人である、あの<宗祇>も関東を訪れています。
・文明2年(1470年)6月
・文明15年(1483年)-16年 宗祇63歳
キーワードは<連歌>。
いまではすっかり廃れていますが、中世においては最先端の文芸ジャンルでした。
というわけで、私の妄想の旅も、<連歌>編に続く...かな?
鎌倉時代、京都と関東の往来が盛んになり、多くの紀行が書かれています。
十六夜日記
東関紀行
海道記
などがありますが、関東の国々を旅した記録はあまり多くはないようです(まあ、私が知らないだけなのかもしれませんが)。
西行も関東を旅していますが、その足跡は不明な部分が多くてよくわかりませんでした。
(関東で詠んだ歌も5首しかないとか)。
南北朝から室町初期になると、さらにテキストが見つかりません。
『都のつと』は、1350~52年(観応)頃、九州を振り出しに諸国を放浪した宗久(生没年未詳)という坊さんの紀行文があるようですが、未だ読んでいません。
テキストがぐっと増えるのは室町後期から。
■『廻国雑記』
道興准后という、かなり偉い坊さんが書いた紀行文ですが、関東をくまなく廻り、その先々で歌を読んでいます。
ただ、日付がなく、地名だけが書かれたセクションも多くて、訪問先の順番を追っていくと、本当に時系列に並べられているのかどうか疑問に思えてきます。
・廻国雑記の旅のコースと期間
文明18年(1486)の6月から約10か月間
文明18年7月15日 越後国府着
↓
↓ 現国道252~木落 十日町市の北で信濃川
↓ 漆山~壺池~くつぬぎ~ふくろ(吹路)
↓ 吹路は新治村吹路
↓ ※新治村は群馬北部の村ですね。
文明18年9月14日 筑波山 参詣
10月朔日 下総
(その後、岩つきから武蔵国へ入り、浅草へ)
武蔵国では、私の家の近くにある<霞ノ関>を訪れています。
しかし、どうやら町田方面から来て、武蔵国へ行っています。
この辺りの記述がどうも腑に落ちません。
(霞ノ関、現在の多摩市にて)
名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、
吾妻路の霞の関に、としこえは我も都に立ちぞかへらむ
都にといそぐ我をばよもとめじ。霞の関も春を待つらむ
(この後、武蔵国へ入り、西武線沿線の恋ヶ窪に至る)
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや
その後は、堀兼の井、入間川を訪れ、現在の埼玉へ至ります。
この旅の間、道興准后は、大塚の十玉坊(じゅうぎょくぼう)に四回も滞在したようですが、十玉坊とはこのあたりの聖護院系統の修験の拠点でだそうです。
(この大塚の地については、川越の南大塚説、志木市幸町の大塚説がある)。
ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。其の夜のとまりにて、
山攣唆険海波瀾 到処多其行路難
踈屋終宵風雪底 凍鶏喚夢月西寒
ある時大石信濃守といへる武士の館に、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。
大石氏は、八王子の滝山城などを築いた豪族ですが、ここにある館は、現在の羽村辺りではないかと言われています。
その後の経路も不思議です。
(川越)
↓
(大井)
↓
(新座)
↓
(所沢)
↓
(山梨)
でもって、
3月2日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる
とあり、この後、道興准后は甲斐や奥羽地方をまわり、五月に京都に戻って二年間にわたる巡歴の旅を終えています。
■『北国紀行』
道興准后とほぼ同じ時期、尭恵という坊さんも関東を旅して、「北国紀行」という紀行を書いています。
こちらは、日付も正確で、行程が非常にわかりやすくなっています。
この紀行が、興味深かったのは、<草津>や<伊香保>など群馬の温泉に関する記述が含まれている点です。
また、尭恵が善光寺にお参りに行っている間、道興准后が越後を通り過ぎていて、ニアミスをしてたりもします。
・北国紀行の旅のコースと期間
文明17年(1485)秋 京都発
文明18年7月14・15日 善光寺詣で
文明18年8月末まで 越後逗留
文明18年9月9日 上州白井にうつりぬ(子持村)
↓ 草津、滞在27日
↓
↓ 忘るるよ思ひのこせと浅間山消えしけふりのおもかげに立つ
↓
文明18年10月17日 伊香保着、滞在17日
↓
↓ からころもかくるいかほの沼水にけいふは玉ぬくあやめをそひく
↓ (藤原定家の歌)
↓
↓ 種しあらはいかほの沼の杜若かけし衣のゆかりとおなれ
↓ 「下葉和歌集」
↓
文明18年11月20日 上野国国府
↓
↓ 跡もなくむかしをつなく舟橋はたゝことのはのさのの冬原
↓
文明18年12月半ば 武蔵国に入る
↓ 聴鼻(深谷駅東)
↓ ~蓑田(吹上と鴻巣の間)
↓ ~狭山~鳩ヶ井(鳩ヶ谷)
↓ 鳥越、金光寺
↓ (隅田川沿いに江戸方面(鎌倉街道下道か?)
文明19年2月20日 鎌倉着
↓ 5月末 六浦金沢称名寺
↓ 6月末 再び武蔵(中野)
↓ 堀兼の井を訪問
↓ 再び上野国国府
文明19年11月27日 国府発
11月28日 三国峠を越える
こうして約2年に及ぶ旅を終えて、尭恵も帰って行きました。
★
中世の関東への旅人にとって、信濃善光寺と武蔵浅草寺はMust-Visitなスポットだったようですね。
また、<佐野の船橋>や<堀兼の井>の歌枕としての知名度の高さは、今では想像もできません。
これほど多くの紀行文が書かれた背景には、応仁の乱で京都の戦火が続いたことや、<連歌>の全国的な流行がありました。
この頃には、西行・芭蕉と並ぶ三大旅歌人である、あの<宗祇>も関東を訪れています。
・文明2年(1470年)6月
・文明15年(1483年)-16年 宗祇63歳
キーワードは<連歌>。
いまではすっかり廃れていますが、中世においては最先端の文芸ジャンルでした。
というわけで、私の妄想の旅も、<連歌>編に続く...かな?
# by terri-o | 2010-01-23 13:36 | 雑文






