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妄想の旅 室町編

紀行文を読んでは、擬似旅行体験を楽しんでいます。

鎌倉時代、京都と関東の往来が盛んになり、多くの紀行が書かれています。

十六夜日記
東関紀行
海道記

などがありますが、関東の国々を旅した記録はあまり多くはないようです(まあ、私が知らないだけなのかもしれませんが)。
西行も関東を旅していますが、その足跡は不明な部分が多くてよくわかりませんでした。
(関東で詠んだ歌も5首しかないとか)。

南北朝から室町初期になると、さらにテキストが見つかりません。
『都のつと』は、1350~52年(観応)頃、九州を振り出しに諸国を放浪した宗久(生没年未詳)という坊さんの紀行文があるようですが、未だ読んでいません。

テキストがぐっと増えるのは室町後期から。

■『廻国雑記』

道興准后という、かなり偉い坊さんが書いた紀行文ですが、関東をくまなく廻り、その先々で歌を読んでいます。
ただ、日付がなく、地名だけが書かれたセクションも多くて、訪問先の順番を追っていくと、本当に時系列に並べられているのかどうか疑問に思えてきます。

・廻国雑記の旅のコースと期間

 文明18年(1486)の6月から約10か月間
 文明18年7月15日 越後国府着
 ↓
 ↓ 現国道252~木落 十日町市の北で信濃川
 ↓ 漆山~壺池~くつぬぎ~ふくろ(吹路)
 ↓ 吹路は新治村吹路
 ↓      ※新治村は群馬北部の村ですね。
 文明18年9月14日 筑波山 参詣
  10月朔日 下総

  (その後、岩つきから武蔵国へ入り、浅草へ)

武蔵国では、私の家の近くにある<霞ノ関>を訪れています。
しかし、どうやら町田方面から来て、武蔵国へ行っています。
この辺りの記述がどうも腑に落ちません。

  (霞ノ関、現在の多摩市にて)
  名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、

    吾妻路の霞の関に、としこえは我も都に立ちぞかへらむ

    都にといそぐ我をばよもとめじ。霞の関も春を待つらむ

  (この後、武蔵国へ入り、西武線沿線の恋ヶ窪に至る)

  此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、 

    朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや

その後は、堀兼の井、入間川を訪れ、現在の埼玉へ至ります。
この旅の間、道興准后は、大塚の十玉坊(じゅうぎょくぼう)に四回も滞在したようですが、十玉坊とはこのあたりの聖護院系統の修験の拠点でだそうです。
(この大塚の地については、川越の南大塚説、志木市幸町の大塚説がある)。

  ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。其の夜のとまりにて、

    山攣唆険海波瀾   到処多其行路難
    踈屋終宵風雪底   凍鶏喚夢月西寒

  ある時大石信濃守といへる武士の館に、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。

大石氏は、八王子の滝山城などを築いた豪族ですが、ここにある館は、現在の羽村辺りではないかと言われています。

その後の経路も不思議です。

(川越)
    ↓
(大井)
    ↓
(新座)
    ↓
(所沢)
    ↓
(山梨)

でもって、

  3月2日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる

とあり、この後、道興准后は甲斐や奥羽地方をまわり、五月に京都に戻って二年間にわたる巡歴の旅を終えています。

■『北国紀行』

道興准后とほぼ同じ時期、尭恵という坊さんも関東を旅して、「北国紀行」という紀行を書いています。
こちらは、日付も正確で、行程が非常にわかりやすくなっています。
この紀行が、興味深かったのは、<草津>や<伊香保>など群馬の温泉に関する記述が含まれている点です。


また、尭恵が善光寺にお参りに行っている間、道興准后が越後を通り過ぎていて、ニアミスをしてたりもします。

・北国紀行の旅のコースと期間

文明17年(1485)秋 京都発 
文明18年7月14・15日 善光寺詣で
文明18年8月末まで 越後逗留
文明18年9月9日 上州白井にうつりぬ(子持村)
↓ 草津、滞在27日

↓ 忘るるよ思ひのこせと浅間山消えしけふりのおもかげに立つ

文明18年10月17日 伊香保着、滞在17日

↓  からころもかくるいかほの沼水にけいふは玉ぬくあやめをそひく
↓                  (藤原定家の歌)

↓ 種しあらはいかほの沼の杜若かけし衣のゆかりとおなれ
↓                   「下葉和歌集」

文明18年11月20日 上野国国府

↓ 跡もなくむかしをつなく舟橋はたゝことのはのさのの冬原

文明18年12月半ば 武蔵国に入る
↓ 聴鼻(深谷駅東)
↓ ~蓑田(吹上と鴻巣の間)
↓ ~狭山~鳩ヶ井(鳩ヶ谷)
↓ 鳥越、金光寺
↓ (隅田川沿いに江戸方面(鎌倉街道下道か?)
文明19年2月20日 鎌倉着
↓ 5月末 六浦金沢称名寺
↓ 6月末 再び武蔵(中野)
↓ 堀兼の井を訪問
↓ 再び上野国国府
文明19年11月27日 国府発
11月28日 三国峠を越える

こうして約2年に及ぶ旅を終えて、尭恵も帰って行きました。



中世の関東への旅人にとって、信濃善光寺と武蔵浅草寺はMust-Visitなスポットだったようですね。
また、<佐野の船橋>や<堀兼の井>の歌枕としての知名度の高さは、今では想像もできません。

これほど多くの紀行文が書かれた背景には、応仁の乱で京都の戦火が続いたことや、<連歌>の全国的な流行がありました。

この頃には、西行・芭蕉と並ぶ三大旅歌人である、あの<宗祇>も関東を訪れています。

    ・文明2年(1470年)6月
    ・文明15年(1483年)-16年 宗祇63歳

キーワードは<連歌>。

いまではすっかり廃れていますが、中世においては最先端の文芸ジャンルでした。

というわけで、私の妄想の旅も、<連歌>編に続く...かな?

# by terri-o | 2010-01-23 13:36 | 雑文

『マッピー』用ボーダー

妄想の旅 鎌倉時代の旅人の後を追ってみる

中世の関東地方を旅しようと、「とはずがたり」の作者<二条>の後をついていったら、すっかり道に迷ってしまいました。

この作品、日記というよりは、日記風自叙伝なので、記述がけっこういい加減。
とくに位置関係の記述が曖昧で、<地図が読めない女>は、昔も今も変わらないとも思ったりもしましたが、よくよく考えると、当時は正確な<日本地図>そのものが存在していませんでした。

二条は、鎌倉で数ヶ月をすごした後、信濃の善光寺の参拝にでかけ、再び鎌倉へと戻っています。そして、善光寺からの帰り道、浅草寺に参拝します。そこからさらに、武蔵野を代表する歌枕である<堀兼の井>を見物にでかけています。

(とはずがたり原文)
「堀兼の井は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つ残りたるばかりなり。
これより奥さままでも行きたけれども、恋路の末にはなほ関守も許しがたき世なれば、
よしやなかなかと思ひかへして、また都の方へ帰り上りなんと思ひて、鎌倉へ帰りぬ」

この井戸の場所は特定されてはいないようですが、狭山市<堀兼神社>にある井戸は有力な候補地のひとつです。ただ、現在の感覚では、長野から戻ってきて浅草寺までたどり着いた主人公が、再び埼玉県の入間郡へ井戸見物にでかけるという行程にはちょっと違和感を持たざるをえません。

ただし、上掲の一節の前文では、ある大河のほとりで地元の人に「この辺りに隅田川という川があるそうですが?」と質問し、「この川が隅田川ですよ」と教えられ、さらには川の対岸は<吉田の里>(旧名は<みよし野>)であると教えられています。この<みよし野>が現在の<三芳町>付近だとしたら、やはり狭山市あたりまででかけていたとしても不思議ではありません。

現代の私たちが、鎌倉から長野の善光寺に行くとしたら、まず地図を見て出発地と目的地を確認します。頭の中で、その2点が二次元平面上の位置関係として把握され、最短距離で結ばれます。そして、寄り道である<堀兼の井>の位置もその2点を基準に考えることになるでしょう。

しかし、そもそも現在のような精巧な地図も磁石も存在しない中世の旅人にとって、旅の座標系そのものが私たちとはまったく違ったものだったのかもしれません。



【堀兼の井について】

<堀兼の井>とは、ヤマトタケルが、水を求めて井戸を掘ろうとしたけれど、いくら掘っても水がでなかったところから、<掘り難い=ホリカネ>という名前がつけられたという伝説の井戸で、平安を代表する多くの歌人たちに詠まれています。

(平安前期)
  ●いかでかと思う心は堀兼の井よりもなほぞ深さまされる
                                         伊勢
  ●はるばると思ひこそやれ武蔵野のほりかねの井に野草あるてふ
                                         紀貫之
(平安後期)
  ●武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり
                                          藤原俊成
  ●汲みて知る人もありなんおのづから堀兼の井の底のこころを
                               西行

また、枕草子にも掘兼の井についての記述があります。

(172)
  井は堀兼(ほりかね)の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。
  山の井、さしも浅きためしになり始めけむ。飛鳥井、「御水(みもひ)も寒し」と
  褒めたるこそをかしけれ。


【鎌倉から北関東へ向かう道】

最近、律令時代の古道ブームですが、当時の北関東には<東山道>、南関東には<東海道>が通っていました。上野国を横断する東山道には、律令制の五駅があり、一番東の新田駅または栃木県の足利駅からほぼ真南に向かって<東山道武蔵路>という道が伸びていました。この道は、上野国または下野国の国府と武蔵国の国府を結ぶ官道でした。ただし、この武蔵路は、武蔵国が宝亀2年に東山道から東海道に移ったため、東山道は武蔵国府へ向かう必要がなくなり、廃れていきます。

その後、鎌倉に幕府ができると、北関東と南関東(中心の鎌倉)の間の交通量も増え、今日、鎌倉街道と呼ばれる道が何本も開かれたようです。一番のメインの道は、後代の中山道の倉賀野宿あたりから武蔵国の国府があった調布を経由して鎌倉に向かう<上ノ道>。さらに、かつての<東山道武蔵路>と重なるように、<掘兼道>と呼ばれる道もありました。

<上ノ道>があれば、<中ノ道>と<下ノ道>もあります。
<中の道>は、現在の二子玉川の辺りで多摩川を渡り、世田谷から中野、板橋、赤羽を経て、岩淵の渡しで入間川(現荒川)を越えて、川口から岩槻、栗橋、古河から白河方面へと向かいます。現在の122号線(岩槻街道)と並行し、中山道および戸田の渡しよりは東側に位置しています。
残る<下ノ道>は海岸線を通って隅田川沿いに北上し、浅草から隅田川を渡って下総、常陸へと至ります(六浦津より房総半島へ渡り、北上するというルートもある)。

【二条のたどったコース】

二条は、鎌倉から善光寺参りに行っています。

ならば、彼女はこの<鎌倉街道 上ノ道>を通ったのでは?
もしも、上道を通ったならば、我が家からそう遠くない小野路、霞ノ関近辺を通ったのでは?
しかし、残念ながら彼女は我が家の近くは通らなかったようです。

正応二年(1289) 二月二十日 京都発
正応二年(1289) 十二月 鎌倉発
↓ (多分、中ノ道経由)
二日後 武蔵国小川口着
(前に入間川、向かいに岩淵の宿という記述あり)
↓ (多分、中ノ道→東山道経由)
正応三年(1290) 二月 善光寺に向かう
(碓氷峠を越えたという記述あり)
(再び武蔵国へ戻る)
正応三年(1290)八月十五日 浅草観音堂 参拝
(その後、隅田川、掘兼の井を廻ったらしい)
↓ (多分、下ノ道経由)
正応三年(1290)九月十日すぎ 鎌倉を発って、京都に帰る

【中世の隅田川と入間川】

二条の生きた鎌倉時代、利根川が東京湾に注ぎ込んでいたことは有名ですが、現在の春日部辺りよりも下流域は「隅田川」と呼ばれていたようです。
つまり、隅田川こそが南関東を代表する大河であり、当時の文献には「利根川」よりも「隅田川」の名前の方が頻繁に登場します。
そして、この隅田川に注ぎ込む支流のひとつが入間川。
現在の荒川の流域がかつての入間川であり、武蔵国を南北に分けるそれなりの大河だったようです。
二条が<隅田川>と書き綴った一節は、実は<入間川>だったのではという意見もあります。
ならば、川の向こうは「みよし野」という住民の答えにも、さらには、入間川に沿って<待兼の井>見物に行ったという彼女の旅程についても納得できます。

# by terri-o | 2010-01-23 13:36 | 雑文

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妄想の旅 中世の関東

ここのところ<引きこもりの日々>が続いているので、いつものように妄想の中で旅をしています。
妄想とはいっても、あまり知らない場所は怖いので、地元である関東(とくに武蔵、上野)周辺の旅です。



律令時代から平安、鎌倉、室町の頃まで、旅の主役は下級貴族や僧侶たちだったようです。
彼らはただ旅をしただけでなく、行く先々で歌を詠んでます。
風流ですね。
元祖は、在原業平と「伊勢物語」でしょうか。
坊さんならば能因法師や西行。
とくに西行が、後の世の歌人、そして旅人に与えた影響は計り知れません。

「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」

かっこいい歌ですね。
日本人の心情をこれほど端的に表現した和歌はないのではないでしょうか?

でも、あまりにかっこ良すぎて、ちょっと嫌味です。
坊さんの辞世の歌としてはどうなんでしょうね。
枯れていないような気がします。



坊さんだけでなく、女性も旅してますね。

平安時代、「更級日記」の菅原孝標女が千葉から京都へ旅していますが、鎌倉時代になると、京都と鎌倉の往来が盛んになります。
何人かの尼さんが、旅の様子を日記として残し、旅の途中で歌枕を訪ねたり、歌を詠んでいます。
尼さんといっても、ほとんどは貴族の出自で、結婚後や女房勤めの後に出家したような人たちです。

阿仏尼は、「十六夜日記」を書いてます。
彼女は訴訟問題を解決するために鎌倉へと赴いてますが(1271年)、このときすでに60歳くらいだったそうです。
ただ彼女は鎌倉に来ただけで、関東地方は旅していません。

「とはずがたり」の作者である後深草院二条という女性も、京から鎌倉へと旅をしています。
阿仏尼が鎌倉へ向かった時点で、彼女は14歳。
32歳で出家し、やはり鎌倉へ旅たちました。
彼女の場合、その後さらに鎌倉から武蔵・上野を経て、信濃の善光寺までお参りに行っています。
おそらくは鎌倉街道で群馬まで行き、そこから東山道(後の中山道)を通っていたのでしょう。

中世の関東の様子を知りたくて、この本を手にとってみたのですが、読み始めてみると、これが面白い。

「とはずがたり」そのものは、紀行というよりも日記ですね。全五巻で、後半の四・五巻が旅の日記です。
まずは、そちらから読み始めて、彼女の前半生が綴られた一~三巻へと戻りました。

中世の貴族社会における恋愛は非常におおらかで、自由だったことは知られていますが、「とはずがたり」の前半部に描かれている世界は、現代の倫理観からは想像も及ばないようなすごいレベルでした。

二条という女性は、後深草天皇(上皇)の女房にして愛人です。
2歳で母を失くした彼女は、なんと4歳で後深草上皇の御所に出仕します。
後深草は彼女の母と愛人関係にあり、その忘れ形見として引き取ったそうです。
いわゆる、源氏の「若紫」のパターンですな。
14歳で正式に出仕し、15歳で初めて院と関係を結びます。
しかし、その後、彼女は後深草の近臣や護持僧とも関係を持ちます。さらには、後深草の異母弟にして、ライバル関係にある亀山天皇(上皇)ともできてしまうんですね。

すごい女性です。ただ、彼女の日記を読んでいくと、とても魅力的な女性であることもわかります。

<粥杖の日>というエピソードがあります。

 「当時の宮廷には、粥を煮た燃えさしの木の杖で女性の尻を打つと男児を生むという、風習があった。
  ある<粥杖>の日、後深草は自分だけでなく、近習の者にも、二条を含む女房の尻を叩かせた。
  そのことに腹を立てた二条は、<東の御方>という女房と結託し、後深草の尻を叩く計画を立てた。
  かくして、いざ決行。他の女房に見張りをさせ、<東の御方>が後深草院をつかまえ、
  二条が粥杖で後深草院の尻をひっぱたく。
  ついには、「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、上皇に謝らせた」

「おいおい、お前ら何やってんだ」って、話しですよね。
おまけに、これは物語ではなく、日記であり、一応実話ということになっています。

こんな楽しい(?)日々を過ごすものの、やがて後深草院の寵愛も薄れ、同時に自らの罪深さを反省した二条は出家して、鎌倉へと旅立っていきます。

中世の女流文学。恐るべしです。

# by terri-o | 2010-01-23 13:35 | 雑文

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町田市の蚕種石

町田市相原町には<蚕種石>という字名を持った地域があります。
<こたねいし>または<こだねいし>と読みます。
16号線を八王子から南に下り、御殿峠を過ぎて町田市にと入るすぐに町田街道と交わります。
その少し手前辺りが蚕種石です。

●国土地理院2万5千分の1地図より


ただし、小字なので、この地名は現在の正式な住所からは消えてしまっています。
この集落には、<蚕種石>と呼ばれる養蚕信仰と結び付いた<石>があります。
伝承によると、
「この石は八十八夜が近づくと緑色に変化し(コケが生える?)、それを見て養蚕農家は蚕を孵化させる準備を始める」のだそうです。

しかし、インターネットで調べていたら、相原からそれほど離れていない京王線多摩境駅の隣にある「礼次(さつつぎ)神社の境内にも<蚕種石>がある」という記述が見つかりました。

ひょっとして、蚕種石集落の<石>が、開発かなにかの理由で、この神社へ移動されたのかもしれないと思い、さらに調べたところ、どうやら相原町字蚕種石の<蚕種石>と、小山町の札次神社の<蚕種石>は別物のようです。

というわけで、さっそく実物の石を確認すべく、町田街道の小山町・相原町方面へと足を延ばしてみました。

まずは、相原町の蚕種石へと向かいます。町田街道を高尾方面へ進み、相原の三叉路を過ぎた辺りで、左折(北上)。この辺りは絹の道の一部でもあり、古い地形と集落が残っていますが、ちょっと歩くと新しい住宅地へと出てしまいました。ひとまず引き返し、地元の人に尋ねたところ、「石はその住宅地の中にある」とのこと。

●ようやく見つけました。普通の家の敷地の隅にありましたよ。


石に対する信仰は、仏教はもちろん、そこら辺りの神社などよりもはるかに古い信仰の形態だそうですね。
ただ、この「蚕種石」が古代からこの付近にあり、それがやがて養蚕信仰と一体化したものなのかどうか、また、この石が元々はどこにどのように祀られていたのか、由来書きを読んでみたのですがわかりませんでした。

と、1つ目の石を確認できたところで、次は札次神社へと向かいます。

●正面の鳥居の隣、津島神社と八坂神社が合祀されている区画にその石はありました。これが<蚕種石>だと思いますが、近くに立て札のようなものはありません。


かつては横浜へと続く街道が<絹の道>とまで呼ばれた相原や小山の周辺でも、もう養蚕は行われていません。
残念ながら、今では八十八夜が来ても、これらの石が緑色に変化することはなさそうです。
石の役目は終わったのでしょうね。

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# by terri-o | 2009-10-20 13:19 | 雑文

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町田市境川の二十三夜さま

町田市と相模原市の境を流れる、その名も<境川>にかかる<蓬莱橋>のたもとに<二十三夜さま>と呼ばれている小さな祠があります。

●境川・蓬莱橋の<二十三夜堂>。祀られているのは<勢至菩薩>だそうです。普段は脇役のほとけさまですが、ここでは主役です。


<二十三夜>とは、<月待信仰>の1つであり、月齢23日の夜に行われる<念仏講>の一種だそうです。そして、<二十三夜講>の人たちが、自分たちの講の存続を記念して建てるのが<二十三夜塔>(または<二十三夜さま>)です。

<十五夜>は中国起源の風習という意見もありますが、<観月>そのものは日本にも古くからあった信仰・習慣なのだと思います。

明治以前は太陰暦だったので、今の私たちよりも、生活と月とはもっと身近だったようです。

宵待ち月
立待ち月
居待ち月
寝待ち月(または、臥待ち月)
更待ち月

なんていう呼称があるくらいですから、日本人は年に1度、満月を楽しむだけでなく、1年を通じて月を観ては、季節の移ろいを感じていたのでしょう。<二十三夜講>よりもさらに月齢の高い月に祈りを捧げる、<二十六夜講>というのもあったようです。

日本の貴族の愉しみといえば、一晩中、恋愛を楽しんで、有明の月なんかを歌に詠んだりすることでした。ただ、一般の人たちは早寝早起きだったでしょうから、優雅な<月待ち>の風習は上流の人々から始まり、徐々に庶民の間へ広まってきたのでしょう。

庶民の間に月待信仰が広がったのは江戸時代のようです。もっと古くからあったのかもしれませんが、講が盛んになり、塔があちこちに建てられたのはおもに江戸後半です。

十三夜や十五夜ならばともかく、二十三夜、二十六夜ともなれば、月の出は午前0時を過ぎてしまいます。
<月待ちの講>は念仏講であり、仏教に関連した宗教行事ではありますが、その目的は夜遅くまで飲んだり、歌ったりして楽しむことだったようです。

●振り返ると境川にかかる<蓬莱橋>。


講自体はもう存続していないようですが、このお堂は地元の人たちに大切にされているようです。
この写真を撮ったのは台風の翌日。
暴風雨が過ぎ去った直後、晴れ間がのぞいたのでさっそくでかけてみたところ、もうお花が供えられていました。

# by terri-o | 2009-10-20 13:16 | 雑文

『マッピー』用ボーダー

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